フラメンコ

大御所時代のスペインと関わり

フラメンコ(Flamenco)は、スペイン南部のアンダルシア地方を中心に伝わる芸能で、2010年にはユネスコによって、スペインの無形文化遺産に登録されています。

なぜ、静岡まつりでフラメンコフェズティバルが行われているかですが、この駿府では、大御所時代(1607年-1616年)にスペインと大きな関わりが有ったのです。

スペイン船難破

スペイン船が難破し317人を救助

スペインはコロンブスの新大陸の発見を機に、16世紀にはフェリーペ二世のもとで積極的に海外に進出していました。この時代には、本国以外にもイタリア・ネーデルランド(オランダ)・新大陸と広大な領土を有す世界の最強の国となっていたのです。

そして、さらにスペインは、太平洋を越え、マニラ(フィリピン)を占領しアジア進出の拠点としていました。

1609年7月25日にフィリピン総督の任を終えたロドリゴ・デ・ビベロの三隻の船が、マニラのカビテ港を出発しメキシコに向かい出帆しました。この三隻の船はメキシコに直接帰る予定でした。

ところが、途中で暴風雨に遭い、1609年9月30日、ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号は現在の千葉県御宿町の沖で難破し、サンタ・アナ号は豊後の海岸に漂着したのです。

このサン・フランシスコ号は、1,000トンもある当時としては巨大な船であったため、難破で乗船員373名のうち56人が溺死し、317人を村民が救助したのです。

この時に、地元の海女さん達が、海に飛び込み溺れて仮死状態になっている船員たちを、体温で温めて蘇生させたという感動的な話が伝わっています。

また大多喜城主本多忠朝の明断により、遭難者を大多喜城内や岩井田大宮社に集めて手厚い保護を村民とともに施し、本多忠朝は、駿府の家康に使者を派遣し、彼らの扱いについて沙汰を待っちました。

この知らせを受けた、大御所徳川家康は一行を駿府城に丁重に連れてくるよう命じたのです。

駿府へ

ロドリゴ・デ・ビベロ一行の代表が駿府へ

ロドリゴ・デ・ビベロはその後、江戸に出て、二代将軍秀忠公に会い、さらに駿府まで来て家康公に面会しています。

家康公はビベロ一行の日本での滞在に便宜をはかり、さらに、約10年前に大分に漂着して、家康公の外交顧問を務めていた三浦按針(ウイリアム・アダムス)に命じて西洋型帆船二隻を伊豆半島にある伊東で造らせていたうちの、大きい方の一隻120トンを用意して、その船をサン・ブエナベンツーラ号(幸福を運ぶ聖なる船の意)と命名、田中勝助等21名の日本人にその船でビベロ一行をメキシコまで送り届けることを命じましたのです。

慶長5年(1610)6月13日、ビベロ一行を乗せた船は、浦賀から出帆、10月23日、メキシコへ無事、帰着しています。

南蛮時計

重要文化財家康のスペイン南蛮時計

その約1年後の1611年スペイン国王フェリーペ三世は、駿府の徳川家康のところにセバスチャン・ビスカイノ大使を正式に外交官として派遣しました。

ドン・ロドリゴらが日本の船を借り、彼らが無事に帰国できたお礼のためというのが表向きの目的で、実際には、日本近海にあると伝えられていた「金銀島」の発見や、スペインが将来日本を侵略するために、日本の島や港として使える場所を測量をすることだったようです。

ビスカイノ大使は、たくさんの品々を家康に献上しました。

日本側の記録によれば、時計 ・カッパ上下・反物・ブドウ酒(白ヘレスと赤ブドウ酒)・鷹具・靴・金筋・南蛮絵である(「方物到来目録」)。

このときの時計が重要文化財の家康の洋時計で、現在は久能山東照宮に所蔵されています。

スペイン国王

2017年4月7日スペイン国王が来静

こうした縁で、スペイン国王フェリペ6世とレティシア王妃は2017年4月7日、天皇、皇后両陛下とともに静岡を訪問し、静岡浅間神社を訪れたのです。

これを機に、静岡まつりでは、青葉会場にてフラメンコフェズティバルが開催されるようになったのです。