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	<title>静岡まつりと駿府の歴史 &#8211; 静岡まつり公式ページ</title>
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	<description>静岡まつりは、「ここ駿府で徳川家康公が家臣を連れて花見をした」という故事に倣い、昭和32年から始まった市民のお祭りです。「大御所花見行列」をメインに桜の花咲く頃のお祭りとして親しまれています。</description>
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		<title>徳川家康と花見</title>
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		<dc:creator><![CDATA[gobusiness]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 25 Feb 2023 11:00:03 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[サンプルテキスト。サンプルテキスト。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>駿府大御所時代絵巻<br />
静岡まつりは、大御所となった徳川家康公が大名や旗本を引き連れて花見をしたという故事に倣い昭和32年に始まりました。<br />
記録によれば、慶長12年（1607年）駿府に居城を移した徳川家康公は、慶長の中頃に、大名・旗本等を引き連れて浅間神社へ花見に行ったことが『東照大権現假名縁起』に記されています。これによれば、「お供のもの綾羅（りょうら）艶色（えんしょく）袖をつらね、競いたる有様は珍しき壮観であった・・・」と当時の華やかな花見の様子を今に伝えています。また、『駿府政事録』にも満開の花の下で花見をし、能楽を奉納したことが記録されています。<br />
綾羅艶色満開の桜の下で<br />
これが静岡まつりで行われている大御所花見行列の由来です。綾羅（りょうら）艶色（えんしょく）袖をつらねと伝えられる光景は、まさに大御所時代の隆盛を彷彿とさせる時代絵巻のようであったに違いありません。<br />
吉野の花見<br />
戦国時代の花見として思い起こされるのは、豊臣秀吉が吉野で行った花見（1594年）です。吉野の花見として、歴史的にも有名です。豊臣秀吉が天下統一を成し遂げてから数年後のまさに豊臣絶頂の時のこと。この花見に同行したのは徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らの武将をはじめ、茶人や連歌師総勢5000人とされています。滞在中は「歌の会」「茶の会」「能の会」などが開かれ、まさに宴尽くしの日々だったようです。<br />
徳川の世を天下に知らしめる花見<br />
この時の徳川家康の心中は定かではありませんが、駿府の地で花見を行ったことは、吉野の花見になぞらえて、豊臣から徳川の世に変わったことを天下に知らしめるものでもあったのではないかと推察できるのです。</p>
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		<title>静岡まつりと駿府九十六ヶ町</title>
		<link>https://shizuokamatsuri.com/learn/96/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[gobusiness]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Sep 2020 14:00:02 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[サンプルテキスト。サンプルテキスト。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「駿府九十六ヶ町」は、今川時代に礎がつくられ、徳川時代に整備された町並みをさします。旧東海道沿いに広がる九十六ヶ町は、多くの人が集まる中心地でした。<br />
駿府とは<br />
駿河国（するがのくに）の府中（ふちゅう）の短縮形で、駿府（すんぷ）は、駿河国（するがのくに）の国府が置かれた都市のことです。<br />
駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指していました。<br />
明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山（しずはたやま）にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たります。<br />
駿河国とは<br />
駿河国は静岡県中部、東部に当たる旧国名です。<br />
西は遠江国（とうとうみのくに）と、東は伊豆国（いずのくに）と接していました。<br />
古代、人々は自分の行動範囲の地名さえ知っていればよく、広範囲な国の名前を必要としたのは中央政権です。<br />
遠江（とうとうみ）は、淡海（とおつあわうみ→とおつおうみ遠近江）、遠くにある近江だったのです。（淡海は琵琶湖のこと）<br />
古代文献では珠流河（するが）と三文字表記され、国名の由来は、富士川の流れがきわめて猛く疾く。するどき河であるからともいわれています。<br />
駿府の歴史<br />
律令時代に駿河国の国府が置かれ、駿河国の中心地となる。<br />
国府は見つかっていないが、駿府城北側に位置する葵区長谷町付近が有力とされています。<br />
駿府は、室町時代から戦国時代にかけて、今川氏の城下町として栄えました。<br />
今川氏は京の都を模して駿府の街造りを行い、現在でも地名や町名等に京都と同じ地名や町名が残っています。<br />
また、荒廃した京の都を逃れた多数の公家や文化人が駿府に居を移し、「東国の京」或いは「東国の都」と呼ばれ、戦国三大文化の一つ、今川文化が栄えた地域です。<br />
しかし、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏は衰退し、武田信玄の駿河攻めによって、駿府は焼討ちに遭い一時荒廃することになります。<br />
その後、今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康が、1585年に駿府を本拠地に定め、城下を整備し、元の繁栄をとり戻していきます。徳川家康公は1590年に関東移封となり、豊臣秀吉配下の中村一氏が駿府に入るが、徳川家康は江戸幕府を開いたのち隠居するとして再び駿府城に居住、大御所政治が展開されました。<br />
駿府九十六ヶ町<br />
大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六ヶ町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方（京・大阪）、江戸（15万人）に並ぶ大都市となりました。<br />
「駿府九十六ヶ町」の言葉は、「駿府公益」、「駿国雑誌」、「駿河国志補遺」などの江戸時代の町方の諸資料に一般的に用いられています。<br />
徳川家康が大御所として駿府城に入った翌々年の慶長十四年（1609年）、町割り（都市整備）を行った時の街の総数を指す言葉です。駿府城家の総称でもあります。城下町には職人・商人ら町人が職業に応じて各町に配置されました。<br />
奈良時代に遡る古代からの町名や、今川時代からの町名も散見できます。<br />
戦国大名今川氏が建設した府中を下敷きに、新しい城下町づくりに賭ける徳川家康公の理念が町名からも伝わってきます。<br />
慶長の町割りは一大区画整理事業でした。戦国時代の袋小路形式を止め、京都式（碁盤の目形）通路を構成し、400年以上を経た現在の静岡市の基盤となっています。<br />
当時の駿府の人口は10万人とも12万人ともいわれ、上方（京・大阪）、江戸（15万人）に並ぶ大都市となっていきます。<br />
この時代の町名が静岡市にはまとまりを持って残っていて貴重な文化財となっています。</p>
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		<title>静岡まつりと静岡浅間神社廿日会祭</title>
		<link>https://shizuokamatsuri.com/learn/sengen/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[gobusiness]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 02 May 2020 14:00:04 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[サンプルテキスト。サンプルテキスト。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>静岡まつりの由来<br />
静岡まつりは、静岡浅間神社の廿日会祭に呼応する形で昭和32年より始まりました。<br />
昭和24年、市制60周年で静岡浅間神社が稚児行列を復活したのに併せて静岡商店会主催で「大御所花見行列」が行われ、「静岡まつり」の原型が出来上がりました。<br />
現在の「静岡まつり」が始まったのが昭和32年となります。<br />
静岡浅間神社<br />
静岡浅間神社は、神部神社・浅間神社（二社同殿）及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社（通称おせんげんさま）となっています。<br />
神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社です。<br />
浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受けることになります。<br />
大歳御祖神社は応神天皇４年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神です。<br />
三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている神社です。<br />
その他境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座していて、総計で40社の神社（徳川家康公を祀った東照宮もあります）となっています。<br />
静岡浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受けることになります。<br />
大歳御祖神社は応神天皇４年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神です。<br />
三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている神社です。<br />
その他境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座していて、総計で40社の神社（徳川家康公を祀った東照宮もあります）となっています。<br />
静岡浅間神社の大拝殿　(国指定重要文化財)は、一層目は千鳥破風付き切妻屋根、二層目は入母屋屋根の三層二階建て楼閣造りで、一般に浅間造りとも呼ばれ、高さ25ｍで全国唯一無比の大建築として有名です。<br />
廿日会祭<br />
静岡浅間神社の例大祭「廿日会祭」は、静岡に春を告げる祭典で、毎年4月1日～5日までの5日間開催されます。<br />
稚児の舞楽を奉奏することから、かつては「舞楽会」とも言われていました。<br />
廿日会祭の本質は「稚児舞」と「踟」とされています。<br />
舞楽が奏される起源は、徳川家康公が駿府城在城の時、「建穂寺」の観音会に参拝した折に、稚児等の奏した舞が家康公のお気に召し、この舞を浅間神社の二月二十日の「お会式」に奉納して、天下泰平・五穀豊穣を祈願したことによると伝えられています。<br />
現在、稚児舞楽では「振鉾」「納曽利」「安摩」「還城楽」「太平楽」が奏され、国の選択無形民俗文化財に指定されています。<br />
時代を超えて受け継がれている稚児舞は、例年4月5日に奉納されます。<br />
稚児舞<br />
稚児舞は、旧暦の2月20日、静岡浅間神社の廿日会祭例大祭（旧お会式）で演じられる舞で、現在は4月5日に行われる。お踟(ねり=山車)とともに市内を巡行してきた稚児が神社に到着すると大祭が執り行われ稚児舞が奉納されるものです。<br />
4月5日午前11時に、隔年で七間町の別雷神社又は紺屋町の小梳神社を輿に乗った稚児の行列が山車屋台を従えて出発、正午に神社に到着すると稚児の前で練物、余興が披露され、15時半ごろ舞殿において稚児舞楽が奉納されます。<br />
貴重な民俗芸能でもあり静岡県の無形民俗文化財に指定されています。<br />
その歴史は古く、戦国時代の公家山科言継が、稚児舞を見物したと『言継卿記』に記している。言継は弘治2年(1556)9月、義理の叔母にあたる寿桂尼(今川義元生母)のもとをたずね、翌3年3月までの半年間駿府に滞在し、弘治3年2月22日に寿桂尼より酒肴を賜って浅間神社の稚児舞を見学した記録があります。<br />
この稚児舞は現在の静岡市葵区建穂にあった建穂寺(明治初年廃寺)に伝わった舞で、建穂寺より浅間神社に出向いて奉納する習わしであった。<br />
建穂寺は秦氏の氏寺として白鳳13年(684)に建立された寺院で、浅間神社には秦氏の氏神を祀った賎機(しずはた)神社が鎮まっていたという。<br />
現在は徳川家康奉納の稚児舞として有名ですが、これは戦国時代に今川家滅亡とともに衰退したものを、家康が大御所として駿府入城の折、先例にならって建穂寺からの奉納を復活させたもので、以降この舞を舞う稚児は幕臣の子弟から選ばれ、建穂寺から浅間神社へ向かう稚児の行列は、与力・同心などの警護が付き、大名行列並み(10万石相当)の格式が与えられていました。<br />
また駿府城外堀には加番などの役人が高張提灯を建てて警護にあたり、江戸幕府庇護のもと盛大に行われ、舞が終了すると「花納めの儀」と称して、天冠の桜・山吹は飛脚にて江戸城内に運ばれ、舞の終了を報告したとされています。</p>
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