街中を巡行した各山車が集まり、賑々しく、木遣・お囃子・面踊り・婦人連、小若衆による地踊りが披露されます。
お踟(おねり)とは、”天下泰平、五穀豊穣”を祈願し、建穂寺の「稚児舞楽」を浅間神社に奉納する途上、安西河原で稚児を迎え、山車屋台を組み、木遣り、お囃子、地踊りを伴って巡行したことが起源で、駿府の町奉行彦坂九兵衛が大御所徳川家康公の肝入りで、町役人や町民に号令して山車や屋台を造らせ、安西五丁目の建穂ロ(たきょうぐち)に稚見舞一行を出迎えて労いたといわれています。
当時は、各町内がめいめいに趣向をこらして練り歩く仮装行列的なものが、「お踟」の原点となっています。
この山車は、杉を立てて神を招く目印「いだし」を語源とするといわれ、杉のほか松や鉾、人形などを据えて車輪を備え装飾を施すとともに、神楽の代わりとして囃子を奏で、市中を巡行して安寧を願うものです。
山車そのものの起源は、京都祇園祭の山鉾にあるとされ、全国各地に様々な形態を見ることができます。駿府の山車は江戸より伝わった江戸型山車であり、一本柱に吸えられた人形は紙の依代であってご神体となります。この御神体を載せた山車は社殿と同様神聖なものです。
当時は、山車屋台は駿府96ケ町から各種が繰り出され、夕刻まで駿府の街へ繰り出し、東海一の大祭と言われました。
その後、何度かの中断を経て、明治27年再興されましたが、日清日露の戦乱期もあり、昭和25年から当番町踟が再興されました。現在「神武車」「稲荷車」「木花車」「咲耶車」の5台の山車と神輿が市街を巡行しています。