駿府城公園
駿府城跡地で桜満開の中で開催されます。
駿府城は、今から650年ほど前の室町時代に今川範国(のりくに)が駿河国の守護に任ぜられました。 そのころから、駿府城周辺に今川氏の館があったと考えられています。
駿府周辺の五カ国の大名となった徳川家康は、1585年から居城として駿府城の築城をはじめ、1589年に現在の二ノ丸以内の部分を完成させました。
現在の、駿府城公園は、駿府城の城郭のうち、中堀の内側の旧本丸と二の丸が再現整備されたものです。
1989年に、二の丸東南角に巽櫓(たつみやぐら)が復元されました。また、1996年には東御門が復元され、巽櫓も東御門も、それぞれ伝統工法による本建築で復元されており、内部は資料館として公開されています。
また、2001年秋に紅葉山庭園も整備され、加えて2014年には南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元されました。
市街地エリア
市街地エリアでは、静岡市役所前を中心に呉服町・七間町・両替町周辺で開催されます。
【七間町】
奈良時代のこの地域は「安倍の市」、鎌倉時代のこの地域は「連雀町」(連尺町)と呼ばれ、駿河国の商業の中心地でした。
江戸時代初期の慶長14年(1609年)、徳川家康が駿府96ケ町の町割りをした際に七間町が誕生したのです。
町名の由来には諸説あり、絹・米・油・魚・木綿等の座(同業者組合)が7軒あったとする説、道路の幅が七間(約13メートル)だったとする説、秤屋が7軒あったとする説などがあります。
【呉服町】
今川氏の時代、呉服町は駿府の本町といわれ、 当時から城下の主要地域であったことが知られていますが、 現在のように呉服町の名が使われるようになったのは、 徳川家康が1609年に行った町割において 駿府96ヶ町が定められた時からです。
その名は、この地に今川時代末期(1560年代)から徳川時代初期(1620年代)にかけて 網座、木綿座の長であった伴野宗善(友野宗全)が住んでいた為付けられたと言われています。
宗善は町頭を勤め、駿府町割の際には奉公を補佐し、 駿府のまちづくりに活躍した人もあります。 また、呉服町には、その名のとおり、戦前までは十数軒の呉服店が 通りに軒を連ねていたことが伝えられています。
【両替町】
両替町の地名は、1606年、徳川家康によって銀貨鋳造所(銀座)が旧両替町二丁目付近に設置されたことに由来します。
この「両替」とは、銀座の業務として灰吹銀を買い入れ公鋳の丁銀と引き換えることでした。また、この銀貨鋳造所の周辺には両替商が集積していました。
後の1612年、この銀貨鋳造所は駿府から江戸に移転しました。この江戸に移転した銀貨鋳造所が置かれた土地が、現在、東京の銀座です。東京都の銀座は、江戸時代(特に慶長から寛永にかけて)には「新両替町」と呼ばれていました。