駿府大御所時代

大御所時代と大航海時代

駿府大御所時代(1607-1616)は、年数から言えばたかだか10年足らずでしたが、その中身は極めて密度の濃い時代だといえます。具体的にはオランダ・イギリス・スペインの各国王使節が駿府を訪れ、国際外交をダイナミックに展開した時代だったのです。

当時、大御所徳川家康公が夢見た駿府城は、安倍川を大改修し、運河で駿府城と城下を結び天守閣の真下にヨーロッパ諸国からの船を着岸させるといった壮大なものでした。残念ながらこの「川辺を拠点とした城と城下町の建設構想」は、安倍川の流れが時として「暴れ水」となり、実現不可能ということで現在の駿府城公園の場所となったのです。

大御所徳川家康公は、この駿府城を中心に大航海時代の日本の主役となり、駿府の地で多彩な外交を展開していきました。。

黄金の国の王様

東方見聞録に書かれた黄金の国の王

大御所徳川家康公は、将軍職を退いて駿府城に移ったとはいえ、単なる「隠居生活」をしていたのではありません。諸外国の使節から皇帝と呼ばれた大御所徳川家康公を、「隠居」と見ていた外国人は一人もいないといいていいでしょう。むしろ駿府城で睨みをきかせ、二代将軍秀忠よりも強い権力を持ちながら諸大名や公家をも統制下に置いていたのです。

こうした駿府の徳川家康公を、諸外国の使節や宣教師それに商人たちは「皇帝・日本皇帝・日本国王・内府様(だいふさま)・大御所・閣下・大皇帝・殿下・上様・天下殿・日本国大君・将軍・大将軍・国王・大王」などと様々に呼んでいたのです。

黄金の国ジパングの王様、それが大御所徳川家康公の駿府での実態だったのです。

国際外交の中心

オランダ、イギリス、スペインの使者が相次いで駿府に訪れる

この駿府大御所時代から日本が本格的国際外交をはじめ、ヨーロッパやアジア諸地域を巻き込んで行われました。駿府にはヨーロッパ、東南アジア諸地域、東南アジア諸地域朝鮮などから多くの人物が去来し、駿府が重要な国際外交の舞台となっていたのです。

オランダ、イギリス、スペインの使者が相次いで駿府に訪れ、交易を締結しています。大御所徳川家康公の言動は国内ばかりか、国外に対しても影響を与えることになりました。家康の国際的外交の広がりは、ヨーロッパや東南アジア諸地域に加え、太平洋の彼方のメキシコにまで広がっていたのです。

太平洋を横断

メキシコとの貿易に深い関心を示す

家康はなぜか、メキシコとの貿易に深い関心を示していました。ウイリアム・アダムズ(三浦按針)に建造させた船(120トンの小帆船)で、慶長15年(1610)太平洋横断に成功しました。これが「大御所メキシコ使節」です。日本人が日本人によって造船された船で、太平洋を横断したのはこの時が初めてとなります。

駿府の町にもたらしたもの

静岡まつりでは、青葉会場において、こうした大航海時代の駿府のまちに大御所徳川家康公がもたらしたものをテーマとしています。