静岡まつりを象徴する「大御所花見行列」。
その背景には、大御所となった徳川家康公が、駿府で大名や旗本らを伴って花見を楽しんだという故事があります。

桜の咲く駿府で、家康公はどのような花見を楽しんだのでしょうか。大御所時代の駿府と、そこに伝えられる華やかな花見の様子をたどります。静岡まつりの「大御所花見行列」も、この故事にならった催しとして行われています。

大御所として駿府へ

慶長10年(1605年)、徳川家康公は将軍職を息子の秀忠に譲り、「大御所」と呼ばれるようになりました。
そして慶長12年(1607年)、家康公は駿府に入り、駿府城を拠点として大御所政治を行います。

当時の駿府には、政治や外交を支える家臣をはじめ、大名、学者、僧侶、商人、さらには外国人まで、さまざまな人々が集まりました。駿府は、江戸と並んで大きな政治的役割を担う都市となっていきます。

政治の指揮をとる一方で、家康公は能や茶の湯、鷹狩なども楽しんでいました。
そうした大御所時代の駿府で伝えられている出来事のひとつが、家康公の花見です。

これが静岡まつりで行われている大御所花見行列の由来です。綾羅(りょうら)艶色(えんしょく)袖をつらねと伝えられる光景は、まさに大御所時代の隆盛を彷彿とさせる時代絵巻のようであったに違いありません。

静岡浅間神社への花見

『東照大権現仮名縁起』には、家康公が大名や旗本らを伴い、浅間神社へ花見に出かけたことが記されています。
供の人々は華やかな装いをまとい、袖を連ねて花見へ向かったと伝えられています。その様子は、当時の駿府の華やぎを感じさせるものです。

大御所家康公を中心に、多くの人々が春の駿府を進んでいく・・・。
現在の静岡まつりで行われる「大御所花見行列」は、こうした故事になぞらえ、春の駿府に華やかな時代絵巻を描き出しています。

花の下の宴

家康公の花見については、『駿府政事録』にも記録が残されています。
そこには、満開の花の下で花見を楽しみ、能楽を催したことが記されています。

花を眺めるだけではなく、人々が集い、芸能を楽しむ。
家康公の花見は、春の景色を楽しむとともに、人々が一堂に会する華やかな宴でもあったことがうかがえます。

桜の下に人が集まり、芸能やにぎわいが生まれる風景。その姿は、時代を越えて現在の静岡まつりにも重なります。

花見は、何を意味していたのか

戦国時代の大規模な花見として知られるものに、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に行った「吉野の花見」があります。
徳川家康公もこの花見に参加していました。旧来の静岡まつりの記事では、こうした秀吉の華やかな花見と、のちに家康公が駿府で行った花見との関係に注目してきました。

家康公が大御所として暮らした駿府は、政治や外交の重要な拠点でした。諸大名を動員して大規模な駿府城の整備を行うなど、家康公が大きな権力を持っていた時代でもあります。

そうした駿府で、大名や旗本らを伴い、華やかな装いで花見を行ったことには、単なる春の遊興だけではない意味があったのかもしれません。
かつて秀吉が華やかな花見を催したように、大御所家康公もまた、駿府に多くの人々を集め、その繁栄を見せることで、豊臣の時代から徳川の時代へと移ったことを世に印象づけようとしたのではないか――そんな見方もできます。

もちろん、家康公自身がそのような意図を語った史料があるわけではありません。
しかし、大御所政治の拠点として栄えた駿府と、その中で行われた華やかな花見を重ねて見ると、家康公の花見にはさまざまな想像が広がります。

現代の大御所花見行列へ

静岡まつりの「大御所花見行列」は、家康公が駿府で家臣たちを伴って花見をしたという故事を、現代の静岡によみがえらせる催しです。
大御所家康公を中心に、御台所や大名、旗本などに扮した人々が、華やかな衣装でまちなかを進みます。

かつて家康公が暮らした駿府。その同じまちを、桜の季節に色鮮やかな行列が進んでいく光景は、静岡まつりを代表する春の風景となっています。

駿府の春に伝えられた、大御所家康公の花見。
その故事は時代を越えて「大御所花見行列」へと受け継がれ、現在の静岡の春を彩っています。