静岡まつりの由来

静岡まつりは、静岡浅間神社の廿日会祭に呼応する形で昭和32年より始まりました。

昭和24年、市制60周年で静岡浅間神社が稚児行列を復活したのに併せて静岡商店会主催で「大御所花見行列」が行われ、「静岡まつり」の原型が出来上がりました。

現在の「静岡まつり」が始まったのが昭和32年となります。

静岡浅間神社

静岡浅間神社は、神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)となっています。

神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社です。

浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受けることになります。

大歳御祖神社は応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神です。

三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている神社です。

その他境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座していて、総計で40社の神社(徳川家康公を祀った東照宮もあります)となっています。

静岡浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受けることになります。

大歳御祖神社は応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神です。

三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている神社です。

その他境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座していて、総計で40社の神社(徳川家康公を祀った東照宮もあります)となっています。

画像②浅間神社(桜)

静岡浅間神社の大拝殿 (国指定重要文化財)は、一層目は千鳥破風付き切妻屋根、二層目は入母屋屋根の三層二階建て楼閣造りで、一般に浅間造りとも呼ばれ、高さ25mで全国唯一無比の大建築として有名です。

廿日会祭

静岡浅間神社の例大祭「廿日会祭」は、静岡に春を告げる祭典で、毎年4月1日~5日までの5日間開催されます。
稚児の舞楽を奉奏することから、かつては「舞楽会」とも言われていました。

廿日会祭の本質は「稚児舞」と「踟」とされています。

舞楽が奏される起源は、徳川家康公が駿府城在城の時、「建穂寺」の観音会に参拝した折に、稚児等の奏した舞が家康公のお気に召し、この舞を浅間神社の二月二十日の「お会式」に奉納して、天下泰平・五穀豊穣を祈願したことによると伝えられています。

現在、稚児舞楽では「振鉾」「納曽利」「安摩」「還城楽」「太平楽」が奏され、国の選択無形民俗文化財に指定されています。

時代を超えて受け継がれている稚児舞は、例年4月5日に奉納されます。

稚児舞

稚児舞は、旧暦の2月20日、静岡浅間神社の廿日会祭例大祭(旧お会式)で演じられる舞で、現在は4月5日に行われる。お踟(ねり=山車)とともに市内を巡行してきた稚児が神社に到着すると大祭が執り行われ稚児舞が奉納されるものです。

4月5日午前11時に、隔年で七間町の別雷神社又は紺屋町の小梳神社を輿に乗った稚児の行列が山車屋台を従えて出発、正午に神社に到着すると稚児の前で練物、余興が披露され、15時半ごろ舞殿において稚児舞楽が奉納されます。

貴重な民俗芸能でもあり静岡県の無形民俗文化財に指定されています。

その歴史は古く、戦国時代の公家山科言継が、稚児舞を見物したと『言継卿記』に記している。言継は弘治2年(1556)9月、義理の叔母にあたる寿桂尼(今川義元生母)のもとをたずね、翌3年3月までの半年間駿府に滞在し、弘治3年2月22日に寿桂尼より酒肴を賜って浅間神社の稚児舞を見学した記録があります。

この稚児舞は現在の静岡市葵区建穂にあった建穂寺(明治初年廃寺)に伝わった舞で、建穂寺より浅間神社に出向いて奉納する習わしであった。

建穂寺は秦氏の氏寺として白鳳13年(684)に建立された寺院で、浅間神社には秦氏の氏神を祀った賎機(しずはた)神社が鎮まっていたという。

現在は徳川家康奉納の稚児舞として有名ですが、これは戦国時代に今川家滅亡とともに衰退したものを、家康が大御所として駿府入城の折、先例にならって建穂寺からの奉納を復活させたもので、以降この舞を舞う稚児は幕臣の子弟から選ばれ、建穂寺から浅間神社へ向かう稚児の行列は、与力・同心などの警護が付き、大名行列並み(10万石相当)の格式が与えられていました。

また駿府城外堀には加番などの役人が高張提灯を建てて警護にあたり、江戸幕府庇護のもと盛大に行われ、舞が終了すると「花納めの儀」と称して、天冠の桜・山吹は飛脚にて江戸城内に運ばれ、舞の終了を報告したとされています。